前回ちょっとヨガスートラに興味が湧いたので調べてみました。
今まで長年瞑想やってきてましたが、ヨガスートラには興味がわかなかったんですよね。
検索したらわかりやすいのすぐ出てきますね??

こういうのわかりやすくていいですね。
これを見る限るヨガスートラってのは一応瞑想の手法ってのがあるみたいで

集中→イメージを膨らませる→自己が消える

みたいな段階で進むってなります。
僕自身は、昔のやり方の話をすると

集中(思考を止めようとする)→その場に留まる→静寂が起こる

ってな感じで、日々やっていくうちに進んで行ったと思います。

あと、この先生というか瞑想わかってる人は必ず言いますよね

瞑想は起こるもの

本当にその通りなんですよね。
ここ大事

ほいで、ここには有想三昧なんて説明がほとんどなかったのでなんじゃろな?って調べました
ここが一番詳しくてしっくりする事書いてましたかね?他のところは説明は???ですね

http://blog.livedoor.jp/syakamuni511112-syakamuni511112/archives/39735098.html

http://blog.livedoor.jp/syakamuni511112-syakamuni511112/archives/39735098.html


いや、凄いですよね(笑)この人本書けるよ。
でも、こんな本売れませんよね。マニアック過ぎて
こういうのが書かれるのが理解出来る人は瞑想上級者ですね。自信もって!

ほとんどの人が意味不明かもしれないので、大切なところだけ。

とくにヨーガでも、仏教でも、瞑想状態によって心の働きが生じていない状態でも、心には対象を探そうとする働きが残っているという。ヨーガでは「尋・伺・楽・我想」の四つを挙げ、その四つをもつ瞑想状態を有想三昧といい、仏教では「有尋・有伺・喜・楽・心一境性」の五つ(五支分)を挙げ、その五つをもつ瞑想状態を色界の四禅定だという。つまり、ここで瞑想状態の深化の基準になっているのは、自我意識が何を捉えて認識したか、何を分析したかではなく、逆に思考する対象を放棄する、想念となる対象を放棄する、喜や楽など感覚の対象を放棄する、最終的には瞑想(禅定)の基礎である「観ている自分と観られている自分」の識別関係を超えた心一境性までも放棄して、全てをあるがままに受容することを目指していることが分かる。それが何を意味するかといえば、それらは分析的な思考、自我意識の停止によってもたらされる体験だということである。

これ僕も何度も言ってる瞑想で大事な

思考を思考として手放す事→あるがままを受け入れること

ってところが瞑想の目指すところって話になってますね。

ほいでもっと大事なのは次の毒矢の話しですよね

「毒矢のたとえ」(中部経典六三)

 この世のあり方について、哲学的に納得しないうちは修行に励もうとしない青年に、お釈迦さんが説いたものである。

 「ある時、人が毒矢に射られたとする。しかし、その人が、かけつけてくれた医者に対して、「この矢を射たのは一体だれであるのか、弓はどのようなものであるのか、弦〔つる〕は何でできているのか、などが分からないうちは矢を抜きたくない」と言ったなら、その人は、それが分かる前に死んでしまう。必要なことは、まず毒矢を抜き、応急の手当てをすることである。

わかりやすい。
僕も言いたい。
瞑想を取り敢えずやってから、それから知識いるなら付けたら???ってね。
世の中知識だけつけて知った気になる人が多すぎますけど、こういう実践しないといけないものでは無意味です。
それに瞑想やるのに知識なくてもいいですよ。

あ、無想三昧の事は体験したレベル外の事なので一切触れません。
もちろん、ここは目指していますが、この人生でそれが起こるかどうかはわかりません。
それに、今は、どうやったら瞑想がより深化していくか?ってのがわかってるので、それをひたすらやり続けるだけです。
道に迷ってないから、こんな文献とか読んだりしないだけです。
いっときは、書籍読み漁ったり、それこそ瞑想伝授受けたり、合宿瞑想行ったり、そんな時期も当然ありました。
そういう時は必死に動き回ったら良いですし、あ、こういう事って自分の中でわかれば、それも終わると思いますので。